BaliTodoのモラトリアム紀行

趣味の進捗から、思考の進捗まで、思ったことを日記感覚で残していきます

恥ずかしいって感情は誰のためにあるのか考えてみた

ヒトの感情には喜び、悲しみ、怒り、悔しさなど様々なものがありますが、その中で一つだけ異質なものがあるなーと、最近感じています。そう、「恥じらい」です。この感情について少し哲学チックかもしれませんが考察してみます

 

恥じらい、つまり恥ずかしいと思う気持ちが他と違うのは、本来そういう感情が生まれる理由がないというところにあります。どういうことか?

例えば、友達に誕生日をお祝いされてうれしい。こういう状況で「何でうれしいの?」と聞かれたら「他人が自分のことを気にかけてくれていること、大事にされていること」が嬉しいという感情につながっていると説明できます。

見知らぬ人に舌打ちされてむかつく(怒り)。であれば、「何でむかつくの?」に対して「その人に見下されている感じがするから」むかつくのだと、説明ができます。

 

しかし、「恥ずかしい」はどうか?

例えば「夜、誰もいないと思って帰り道に歌ってたら人に聞かれた」みたいな状況、恥ずかしいですよね。でも「何で恥ずかしいの?」と質問されても困りませんか?「だってそうじゃん・・・」としか言いようがない。

つまり「聞かせるつもりじゃない歌が聞かれてしまう」という状況は恥ずかしいのだ、という恥ずかしさの固定概念・共通認識があって、それによって恥ずかしいという感情は生み出されていると思うんです。

だって歌を聞かれたからと言って、ネガティブな感情が生まれる必要はどこにもないわけで、でも生きていくうちにそういう状況が恥ずかしいものと思うから自分もその立場に立った時恥ずかしくなるわけです。

他に恥ずかしい場面の例をあげれば、服にラベルがついたままだったとか、ひとりだけパーティに私服で来てたとか、極端な話、裸をみられた、とかね。全部本質的な恥ずかしい要因があるわけじゃなく、みんなが持ってる常識が生み出している恥ずかしいという感情なんです。

よく「恥ずかしいと思うから恥ずかしいんだ」みたいなことを言う人がいますがまさにこういうことですよね。

 

だから元々の原因を言うとするならば「あの人常識から外れてるね(笑)」という他人の嘲笑のせいなんでしょうけど、ここから「こういう状況は恥ずかしい」のテンプレートが出来上がって恥ずかしさが先走っているのです。

逆にあなたが道で歌っている人をみてしまった人、大半の人は別に嘲笑しないと思います。でも「あーこれは相手恥ずかしいだろうな(笑)」って思いますよね。

これは本来の原因である嘲笑を離れて恥ずかしい場面のテンプレートを、あなたも備えてしまっているからです。自分としての感情は特に抱かないのに、相手が恥ずかしいだろう、という共感で相手が恥ずかしくなる。少し複雑だけど、上手く言語化できているでしょうか

 

常識から始まった嘲笑の文化がそこから恥ずかしさだけ先走って、日常の無数の場面である恥ずかしテンプレートが常識として備わってるの、なかなか面白いことだと思いませんか。

 

さらにこの考察から派生して先を考えてみます。

恥ずかしさの原因が嘲笑から離れて恥ずかしテンプレートに移行している、ということは、言ってみれば誰も得をしない状況になっていますよね。

本来、怒りなどと同様に「嘲笑」というものに対して抱いた負の感情が、時代の変化で負の部分だけが今に残っているということ。そういう誰も得をしない恥ずかしテンプレートがある必要性に疑問を感じませんか?

 

常識を覆すことは難しいから実現する可能性は低いけど、もしもこの「こういう状況って恥ずかしいよね(笑)」という恥ずかしテンプレートを世の中から無くすことができれば、もっとみんな自由に、楽しく生活できるんじゃないでしょうか?

だって別に道で歌を歌ってたり服にラベルがついていたり、裸をみられても本来誰も損をする人はいないはずな訳ですから(迷惑になっている場合は別ですが)。

 

まとめると、恥ずかしいという感情は元々何か常識を外れた行為に対する嘲笑を感じ取って生まれるネガティブな感情だったはずが、「こういう状況って恥ずかしいよね(笑)」という恥ずかしテンプレートが先行して本来の原因である嘲笑から離れてしまっているということ。

そしてそれによって誰も得をしていない恥ずかしいという感情が半分なごりのように残り、少しだけど世の中を生きづらくしている。

もしもこの恥ずかしテンプレートが無くせたら色々な部分で生きやすくなるよね、という内容でした。

 

恥ずかしさが本来常識によるものだからこそ、国によっても違うんでしょうね。アフリカの民族は裸だったりしますし、アメリカでは日本よりも歌ったり踊ったりに抵抗がない気がします。

また、常識によるものであれば当然時代によっても何が恥ずかしいかは変わるわけで、最近の例でいえば数年前までひとりで道で喋ってたら恥ずかしかったけど、今はワイヤレスイヤホンでハンズフリー電話をすることが割と普及してきて以前より恥ずかしくなくなってきていますね。