BaliTodoのモラトリアム紀行

趣味の進捗から、思考の進捗まで、思ったことを日記感覚で残していきます

結局のところ、自分が話せた日は楽しい

2023年は大学に入学しましたが、新歓イベントやサークルで集まっても自分だけ楽しめず、家に帰ってからどっと疲れが出る、なんてことがありました。

「みんなはワイワイ楽しそうなのに、なんで俺だけ冷めてるんだろう」なんてずっと考えて、他人の話に興味がないのかな、ワイワイすること自体が自分に合ってないのかな、などと思考を巡らせ続けていました。

そして、やっと最近人の集まりを僕が楽しめる条件が分かってきた気がします。タイトルにも書いた通り、結局のところ自分が話せたかどうかです。

一概に自分の話ができたかどうかではなく、自分が話せたかどうか。つまり話を自分の思う方向に誘導できたか、そんなところが大事なんじゃないかと感じてきています。

 

自分の話から会話を広げる

よく人はみんな自分の話が聞いてもらいたいもんだ、とは言いますし、そのこと自体は僕も知っていましたが、元々高校時代から僕はそんなに自分の話をするキャラではなかったんです。友達にも「聞き役だよね」と言われます。

今だからこそ理由も分析できているんですが、他人の話にそこまで興味がないからこそ僕は自分の話をしてもみんな興味がないんだろうと思っていました。

でもそういう飲み会・宴会を楽しんで会話の中心にいる人たちの会話を観察してみたら、想像以上に自分の話をしている。そして案外そういうところから会話が広がっているんですね。

そういう経験から、自分の話をすることは話題がないときには全然やっていいことなんだな、と去年の夏ごろから認識し始めました。

 

いやでもでも自分の話なんて!話上手は聞き上手

会話に苦手意識をもつあなたならきっと調べたことはあるはず、「会話 続け方」なんて検索すると必ずと言っていいほど「聞き上手になりましょう」「相手に質問をして話を引き出しましょう」なんてアドバイスが書かれています。ほんとにどのサイトにも、どの本にも。

確かにね?これを実践していくらかは会話がつなげられるようになりました。

相手の話を聞きつつ、深ぼりできそうなところがあったら質問をして相手に話させる。ふーんで終わって沈黙が続いてた以前よりは断然マシになります。

でも正直なところ、この方法、つまらないんです!

僕だけか誰しもかは分かりませんが、オチがあるわけでもない他人の話にそこまで興味をもてない!

退屈で、質問をしてはいるけど内心別にどうでもいいとは思っていることがありました。

今思えば、岡田斗司夫さんも配信で同じことを言っていたような気はします。「会話を続けるっていうのは、自分の話をすることとは全然別なんだな笑」みたいな感じで。

まだまだ未熟な会話力だけど今の僕から昔の自分にアドバイスするならば、もっと自分の話をしてみた方がいい。

思い切って自分の話をしてみるようになると、想像よりはみんな話を聞いてくれるし、そこから面白い会話に派生することもしばしば。もちろんオチのある話だとなおよくて、そういう時は笑いもとれて最高。

 

友達といても話す話題がないことが僕の中学時代からの悩みなんですが、これも自分の話をしてこなかったことが理由なんだろうな、と思います。さらに類は友を呼ぶで周りもそういう友達が多い。

 

でも特に仲良くない人との飲み会は…

でも自分の話ができるのは仲いい人限定!

基本「そういや最近さ~」くらいのノリで話を始めるので、仲良くない人とは自分の話はなかなか難しい。

そういう時には「自分が話す」の「自分の話」じゃないもう一個の方、自分が会話を誘導できるようになると非常に楽しいと思う。

誰か個人の話でなく、一般的なものについてみんなで会話している感じ。こういう時に自分の意見を言ったり冗談を飛ばしてみんなの笑いを取れたりすると楽しくなってくる。

でもだからこそ、みんなが初対面であれば自分がリードすることも可能だけど厄介なのは元々ある輪に入らなきゃいけないときなんですよね。

内輪は仲いい人同士なので自分の話をして盛り上がってて、そこに外部の人が立ち入るのは中々難しい。だから元々仲いい人はその輪を開いてもらえるとすごくありがたい。

 

少し話がそれるけど個人的に陽キャには二種類いると思ってて、それが「輪を開ける陽キャ」と「輪を開けない陽キャ」。

前者はだいたい学級委員とかをやるクラスの中心的な陽キャで、友達も多いし明るいけど基本みんなにやさしい。クラスの少し大人しい子に対しても平等に話しかけてあげるような。

で、後者は俺があまり好きになれないタイプ。陰キャではないから陽キャに属するけど、いつも同じメンツで固まっててその身内以外に対しては仲良くしようとしない(できない?)。自分の輪の中にいるときはワーキャー騒ぐけど、それ以外のグループでは全然話さずスマホとかをずっといじってる。グループワークにも非協力的。ドラマとかでいじめとかをするのはこっちの陽キャだし、はっきり言って嫌い。

前にTwitterで「真の陽キャ像」みたいなものについて話題になっているときがありました。

大体そういうとこで描かれるのは前者の優しいタイプ。その後「それは真の陽キャじゃなくて陰キャの理想の陽キャだろ」なんて意見もたくさんありました。

僕はどっちも陽キャであるとは思うけど、ひとくくりにするのは違うような、陽と陰の1つのパラメータで分けられないタイプが人間にはあると思います。

 

で、話は戻り前者のような人たちだと特に仲良くなくても楽しい。やっぱり友好的な態度って大事でお互いに仲良くしようとしてればある程度仲は深まると思うんですよね。

でも経験上、そういう人はそんなに多くなくてだいだいはツンツンしてるから友達ってできにくいんですよね。それこそこれから同じクラス、とかこれから同じサークル、とかだったら増えるんだけど。

 

今の自分は前者の陽キャを待ってるイメージ。そういう人とは割と話せるし仲良くできるけど、そうじゃない人とだと最初少し友好的な態度を見せた後「あ、この人たち輪を閉じてるタイプだ」と判断したら自分も輪を閉じて傷つかないように身を守ってる気がします。

誰とでもすぐ仲良くなれるような、前者の陽キャになりたいなーと感じます

ずっと気になってた任天堂のピクミンシリーズを初めて遊んでみた

昨年発売された『ピクミン4』、ピクミンシリーズの最新作です。あの任天堂のゲームで、これだけシリーズ化されてるんだからきっと面白いんだろうなー、やったらはまるんだろうなー、とは思いつつも、なんか知り合いにやってる人がいないしどんなゲームかも分からないままピクミンシリーズは避けてしまっていました。

唯一知ってたのは、ピクミンが小さい赤青黄の生き物を引き連れるゲームということです(スマブラ知識)。

12月にインフルエンザになったのを機に布団で寝ながらできる1人用のゲームを買おうと思い立ち、ダウンロード版でついに気になっていたピクミンシリーズに足を踏み入れました。

僕と同じように気になってはいる人、多いのではないでしょうか?一通りクリアしましたので、ネタバレなしでどんなゲームなのか、どんな人におすすめできるゲームなのかをレポートしてみたいと思います!

 

 

まず、ピクミンがどんなゲームかですね。ざっくりいうと「小生物を駒にして働かせる箱庭探索ゲーム」です。もちろん小生物とはカラフルなピクミンたちのことです。

3D の大き目の箱庭ステージにオタカラと名前の付いた収集物が沢山落ちていて、それを主人公(ヒト)がピクミンに命じて拠点まで運ばせる。基本的にはこれの繰り返し。

ピクミンは小さいですがある程度の知能をもっていますので、命じた後は複数匹で力を合わせて勝手に拠点までオタカラを運んで行ってくれます。

なのでプレイヤーはいかに効率よくピクミンを動員してオタカラを回収するか、段取りが大事になってくるんですね。(ちなみにこの段取りがピクミンシリーズの肝だと開発者の方がインタビューで答えていました。)

ここの道作りをこの色のピクミンにやらせている間にこっちの色のピクミンでオタカラを運ばせ始めておけば無駄が少なく回収できるな…みたいな頭の使い方をするので、プレイ中は少しパズルゲームっぽさもあります。

 

また、ゲーム内は時間のサイクルがあって、昼の間しか活動できないので時間制限があります。日没時にプレイヤーとはぐれているピクミンは死んでしまう仕様なので、オタカラ運びに動員したピクミンを慌てて集めに行ったり、間に合わないと判断したら諦めて拠点に戻ったりしなければいけません。

 

おおまかなゲーム性の説明としてはこのくらいです。この箱庭ステージがいくつかあって、オタカラの回収が進むごとに探索できるステージが増えていくわけですね。

ステージにはもちろん敵もいますが、アクションゲームのように心臓がバクバクして焦るタイプの戦闘はありません!なにしろ使える攻撃が敵にピクミンを投げて頭突きさせることくらいしかないので、そんなに複雑なアクションができないんですね笑

だいたいは敵の弱点が露出するのを待ってピクミンを突撃させ、タイミングよく集合させてまた攻撃の隙を伺う…といった繰り返しです。良くも悪くも戦闘はシンプルです。メインの要素ではないので。アクションが苦手な人もなんなくできると思います。

 

僕が一番ピクミンを面白くしていると感じたのは、ゲームを進めていくにつれてピクミンのより細かい支配ができるようになっていくところですね。オタカラと別にシザイと呼ばれるアイテムを集めていくことになるんですが、このシザイと引き換えに色々なハイテク道具を交換できます。

例えば、最初はただピクミンを投げる、近くのピクミンを集合することしかプレイヤーはできないのですが、この道具を交換していくとピクミンを一斉に突撃させたり、遠くにいるピクミンまで呼び寄せられるようになったり、ドローンを使って箱庭ステージ内の遠隔眺望をしたりすることが可能になります。

素晴らしいと思ったのは大体の他のゲームと違ってこの道具が使い切りではない点で、一度交換した道具はその後の探索で無制限に使えるんですね。

また、プレイヤー自身や仲間の犬の体力や攻撃力、運べるモノの重さ、移動スピードなんかも買い切り式で強化できます。

つまりゲームでありがちな「もったいないからこのアイテムはいざという時のために温存しとこう」「今使ってしまったら後悔するかも…でも使わなきゃ…」というアイテムを使用することに対するマイナスの葛藤がピクミンではほとんどありません!

一度交換・強化したらそれ以後はずっとパワーアップして強いまま!つまりどんどんプレイヤーは成長していって、アイテムがないことによって退化することがないんですね。

これ、ピクミンをやって思ったんですがゲームにおいてかなり重要な要素だと思うんですよね。アイテム使用時の葛藤って結構プレイヤーの心の負担になるし、最終的にクリア時にアイテムが余っても残念な気分になるし。

だからこれがないピクミンはよくできているなと感じました。(正確に言うと使い切りのアイテムは存在するのですが、それほど登場しないので安心です)

 

個人的にゲームの楽しさって「成長感」にあると思うので、どんどん一直線に成長していくこのゲームはかなり面白く感じました。道具・強化以外にも、1匹で10匹分の力持ちなより便利なピクミンが手に入ったり、ステージの探索が進むにつれ近道が開拓されて探検しやすくなったりします。

 

他に類をみないタイプのゲームでしたね、ピクミンは。ピクミン4においては、昼夜の制限はありますが基本的にはいつまでものんびり探検がしていられるので、アクションが苦手な人でもゆったり自分のペースで楽しめるゲームだと思います。

 

何かの記事で読んだのは、ピクミンの開発者いわく「ピクミンシリーズは根強いファンを持ちながらもこれといって大ヒットしたことがなく、今回の『ピクミン4』で初めてこんなに遊んでもらえた」とか。確か去年のSwitchダウンロード本数が3位とかでしたね。

気になっている方、ぜひ買って遊んでみてください!

 

さて、おすすめした直後ですがいい所ばかりを書くと説得性に欠けますので、やっていて感じたピクミンのマイナスな面についても書きますね。あくまで僕の場合ですが、クリアまでの間終始「やってもやらなくてもいいゲームだなぁ」とは感じていました。

確かに成長感もあって面白いんですが、もし急にピクミンができなくなっても「えー、残念!」としか思わないというか、どうしてもやりたい!という気持ちにはならなかったですね。ある意味惰性で続けていられたのかも。

大ヒットにならなかったというのも少しわかる気がして、なんというか爆発的な、熱狂的な面白さは持っていない気がします。なんとなく楽しい、まだオタカラがあるからまた開いちゃう、そんなゲームでした。

やることがいつまでも探索で目的意識が薄いから、というのが原因かもしれませんね。いちおうストーリーはあるんですが、それほど大事なものでもないので惰性で続けてしまうのかと思います。

 

それでも暇な人にはこれほど面白い暇つぶしゲームはないと思います。

以上、ピクミンを初めて遊んだ男の感想でした!

 

恥ずかしいって感情は誰のためにあるのか考えてみた

ヒトの感情には喜び、悲しみ、怒り、悔しさなど様々なものがありますが、その中で一つだけ異質なものがあるなーと、最近感じています。そう、「恥じらい」です。この感情について少し哲学チックかもしれませんが考察してみます

 

恥じらい、つまり恥ずかしいと思う気持ちが他と違うのは、本来そういう感情が生まれる理由がないというところにあります。どういうことか?

例えば、友達に誕生日をお祝いされてうれしい。こういう状況で「何でうれしいの?」と聞かれたら「他人が自分のことを気にかけてくれていること、大事にされていること」が嬉しいという感情につながっていると説明できます。

見知らぬ人に舌打ちされてむかつく(怒り)。であれば、「何でむかつくの?」に対して「その人に見下されている感じがするから」むかつくのだと、説明ができます。

 

しかし、「恥ずかしい」はどうか?

例えば「夜、誰もいないと思って帰り道に歌ってたら人に聞かれた」みたいな状況、恥ずかしいですよね。でも「何で恥ずかしいの?」と質問されても困りませんか?「だってそうじゃん・・・」としか言いようがない。

つまり「聞かせるつもりじゃない歌が聞かれてしまう」という状況は恥ずかしいのだ、という恥ずかしさの固定概念・共通認識があって、それによって恥ずかしいという感情は生み出されていると思うんです。

だって歌を聞かれたからと言って、ネガティブな感情が生まれる必要はどこにもないわけで、でも生きていくうちにそういう状況が恥ずかしいものと思うから自分もその立場に立った時恥ずかしくなるわけです。

他に恥ずかしい場面の例をあげれば、服にラベルがついたままだったとか、ひとりだけパーティに私服で来てたとか、極端な話、裸をみられた、とかね。全部本質的な恥ずかしい要因があるわけじゃなく、みんなが持ってる常識が生み出している恥ずかしいという感情なんです。

よく「恥ずかしいと思うから恥ずかしいんだ」みたいなことを言う人がいますがまさにこういうことですよね。

 

だから元々の原因を言うとするならば「あの人常識から外れてるね(笑)」という他人の嘲笑のせいなんでしょうけど、ここから「こういう状況は恥ずかしい」のテンプレートが出来上がって恥ずかしさが先走っているのです。

逆にあなたが道で歌っている人をみてしまった人、大半の人は別に嘲笑しないと思います。でも「あーこれは相手恥ずかしいだろうな(笑)」って思いますよね。

これは本来の原因である嘲笑を離れて恥ずかしい場面のテンプレートを、あなたも備えてしまっているからです。自分としての感情は特に抱かないのに、相手が恥ずかしいだろう、という共感で相手が恥ずかしくなる。少し複雑だけど、上手く言語化できているでしょうか

 

常識から始まった嘲笑の文化がそこから恥ずかしさだけ先走って、日常の無数の場面である恥ずかしテンプレートが常識として備わってるの、なかなか面白いことだと思いませんか。

 

さらにこの考察から派生して先を考えてみます。

恥ずかしさの原因が嘲笑から離れて恥ずかしテンプレートに移行している、ということは、言ってみれば誰も得をしない状況になっていますよね。

本来、怒りなどと同様に「嘲笑」というものに対して抱いた負の感情が、時代の変化で負の部分だけが今に残っているということ。そういう誰も得をしない恥ずかしテンプレートがある必要性に疑問を感じませんか?

 

常識を覆すことは難しいから実現する可能性は低いけど、もしもこの「こういう状況って恥ずかしいよね(笑)」という恥ずかしテンプレートを世の中から無くすことができれば、もっとみんな自由に、楽しく生活できるんじゃないでしょうか?

だって別に道で歌を歌ってたり服にラベルがついていたり、裸をみられても本来誰も損をする人はいないはずな訳ですから(迷惑になっている場合は別ですが)。

 

まとめると、恥ずかしいという感情は元々何か常識を外れた行為に対する嘲笑を感じ取って生まれるネガティブな感情だったはずが、「こういう状況って恥ずかしいよね(笑)」という恥ずかしテンプレートが先行して本来の原因である嘲笑から離れてしまっているということ。

そしてそれによって誰も得をしていない恥ずかしいという感情が半分なごりのように残り、少しだけど世の中を生きづらくしている。

もしもこの恥ずかしテンプレートが無くせたら色々な部分で生きやすくなるよね、という内容でした。

 

恥ずかしさが本来常識によるものだからこそ、国によっても違うんでしょうね。アフリカの民族は裸だったりしますし、アメリカでは日本よりも歌ったり踊ったりに抵抗がない気がします。

また、常識によるものであれば当然時代によっても何が恥ずかしいかは変わるわけで、最近の例でいえば数年前までひとりで道で喋ってたら恥ずかしかったけど、今はワイヤレスイヤホンでハンズフリー電話をすることが割と普及してきて以前より恥ずかしくなくなってきていますね。

『家政婦のミタ』を観て父親になるのが怖くなった

10年くらい前に流行ったテレビドラマ『家政婦のミタ』が今再放送しているので観てました。まだ序盤ですが、流行っただけあってかなり面白いです。

ただ昨日3話目を観て、大学生の自分にはまだまだ先の話ですが父親になることの恐ろしさを感じました。

思ったことを言語化していきます。以下、多少のネタバレ含みます。

家政婦のミタを観る | Prime Video

 

家政婦のミタ』第三話。大きなテーマに「父親としての責任」がありました。

長谷川博己演じるお父さんは、数年前に他界した妻が自殺だったことを事故ということにして3人の子供に隠していました。そしてその自殺の原因が自身の不倫にあったということも。

 

しかしとあるきっかけでそれが子供にしれてしまい、地位を得ていた会社でも不倫がばらされてどん底に落とされます。明るかった家庭も険悪に。

子供たちを騙していたこともあって、長女、長男、次男は激昂し、「もうお父さんではない、一緒には住めない」と軽蔑されます。幼いため事情を理解しておらず、「離れたくない」と泣き叫ぶ次女。

 

そんな暗くて生々しい悲劇のシーンで、お父さん(長谷川博己)が泣きながら子供たちにこんなセリフを言います。

 

「俺には父親になる資格なんてなかったんだ。

今となっては妻を愛していたかも分からない。子供ができちゃって、妻には『おろすくらいなら死んでやる』と脅されて結婚した。

子供ができたら父親らしくなるかと思ってたけど、何も変わらなかった。家でもお前ら(子供)と話す前はトイレで気合を入れないとだめで、気持ちが休まるのはトイレと通勤の運転中しかなかった。

妻が死んでからは良い父親になろうって頑張ったけど、お前らには本当の俺が全部見透かされている気がしてずっと怖かった。」

 

凄くないですか。。

普通のドラマなら不倫して奥さんを自殺に追い込んだ父親なんてただの悪役でしかないはずなのに、このシーンで僕はお父さん(長谷川博己)に同情してしまった。

 

普段自分も実の父をお父さんとしかみてないけど、親も親である前にひとりの人間であるってことを気づかされました。

確かに子供ができたら誰もが父親になるわけだけど、当然父親らしくできない、そこまでの余裕がない男性も世の中にはいる訳でして。今の自分も当然そうだと思います。

 

でも立場上父親になったからには子供にとって「お父さん」でなくてはならない。どんな時も子供のことを考え、自分より子供を大切にする義務がある。疲れたからしばらくひとりになろうなんて出来ないですよね、多分。

この不安、恐怖、責任の重さ、ドラマを観ながらヒシヒシと感じてしまいました。

 

今まではいつか結婚して子供が欲しいな、なんて楽観的に考えていましたが、子供を作るということはそれだけ責任が伴うんですね。それも一生逃げられない最大の責任。

 

正直仕事とか人間関係だったら最悪逃げ出して海外にでも行ってしまえば解決するような気がします。これはまだ働いてない若造の未熟な思考なのかもしれないけど、自殺のニュースを見るたび死ぬくらいならどこかに逃げてしまって新しい人生を始めればいいのに、なんて思ってしまいます。

 

でも、今回のは例外。子供とは切っても切れない関係があるということ、今までも分かっていたようで初めてちゃんとこんなことを考えた気がします。

不倫なんかしてたら世間では悪役で誰も味方してくれないだろうし、生きている限り逃げられないということは、逃げる選択肢はひとつしかないわけで…。

もし自分が将来こういう立場になったら、と思うとどうしようもない絶望を感じます。

 

家政婦のミタ』、3話にしてもう悲劇のクライマックス感がありますがここからハッピーエンドにつながるんでしょうか。とんでもないどんでん返しがない限りスッキリ終わる未来が見えないな…

LINEで雑談するのって難しい

友達とLINEをしていると特に要件もなく雑談チックな会話になることがあるけど、相手の顔色が文章にしか現れない点で僕はLINEでの雑談が苦手です。

 

おしゃべりの際、対面であれば相手の顔色、態度、視線なんかをみて相手がどういう気持ちなのか、おしゃべりを続けたいと思っているのかをそれとなく察することができます。でもLINEではそれができないんですよね

 

相手が「笑」や「!」、絵文字なんかを使ってくれる人であれば割かし分かりやすいので、そういう人とのLINEは気持ち的に楽です。女子は多いがち。

でも特に男子の場合、そういうのを使わない人も多くてLINE上だと何考えているのか分からないんですよね。

冗談を言っても相手が笑っているのか、滑ってるのか分からないし、遊びにいく話をしてても乗り気なのか分からない。

だからだんだん不安になってきて、「対面で話したいなぁ」と思う訳です。

 

グループラインはそれの最たる例でして、絵文字なしの人たちだと雰囲気が怖くて発言しにくいことがあります。

もちろん要件があれば話は別です。いつでも連絡がとれる環境は便利だし、相手の顔色をうかがう必要もないからLINE様様です。

 

皆さんもLINEの会話苦手に思いませんか?自分が顔色伺う性格だからなんですかね?

 

つづいて自身の近況について!

最近XでUnity開発者ギルドというコミュニティがあることを知って、入れてもらいました。最近はそこでゲーム開発の進捗とか疑問をつぶやいているので、Xやブログの方はほぼ動かせていなかったわけですね。

このギルド、何がすばらしいって些細な疑問もつぶやけばUnityやC#に詳しい先輩たちが教えてくれるんですよね。

急に成長スピードが速くなった感じがして、入ってよかったなーと感じています。

今の目標はテトリスを完成させることです。

自分はJPOPファンだけど「歌詞を聴いていない」という発見

僕はスピッツが好きなんですが、高校1年生のときに自分が歌詞を全く聞いていないことに気がつきました。何が好きかといわれたらそのメロディとボーカルも含めた楽器の「サウンド」であって、歌詞などまるで意識したことはなかったんです。。。

 

言われてみれば、大好きな曲も歌詞がどんなテーマかは全然知らないし、歌詞は「音」としては覚えてるし何も見なくても歌えるけど、全く「詩」としては捉えていなかった。ボーカルを楽器のようにとらえて日本語であるとは意識していなかったんですね。

 

だから歌詞を聴かないといっても、好きなボーカルの部分はあります。スピッツでいえば、草野マサムネさんのここの声の響きと発声音が好き、とかね。もちろん普段から発声がどうとか考えて聴いてませんが笑、言語化するとそういうことです。

例えば「溢れるほ~ど~の♪」という歌詞であったら「アフレルホードーノ」という音の音程と発せられるタイミング、そしてその声質が気に入っているということです。伝わりますか?笑

 

どんな歌手もYouTubeのMVのコメントでは、「ここの歌詞が沁みる」とか、「この歌詞に元気をもらいました」とか、歌詞を褒めるようなコメントがほとんどですよね。何気なく今まで見ていたけど、そういう感想を自分はもったことがない。

歌詞に感動したことも勇気づけられたこともない。

 

そう考えると、自分は何か損をしているのでは?という感情が生まれてきました。JPOPの良さは大きくサウンドと歌詞の2つに分けられて、大半の人はその歌詞の部分にも大変な愛着をもってJPOPファンを名乗っている。なのに俺はサウンドしか良さを感じていない…と。

 

悲しくなった僕は意識して歌詞の意味とかを考えるようにはしてみたんですが、大して変わりませんでした。スピッツだから、っていうのもあると思うけど、考えたところで全然意味が分からない。

ただね、部分的にこういう意味かな?って想像してもしそうだったら自分の気持ちを表してるな、とか、そういうのは見つけられるようになりました。

今も普段はサウンドしか聴いてないですね。

 

でも歌詞を聴かない人、多分一定数はいると思います。

 

さて、この歌詞を聴かないことが自分が歌を作るときに障害として立ちはだかります。そう、普段全く歌詞を聴かないから、歌詞がかけないんです。

もっと心を動かすような良い歌詞かけると思ってたのに、できるのは陳腐で薄っぺらい歌詞。逆にサウンドとしての心地よさはあると思います。というかそっちしか追及できないから、途中から意味よりも耳障りを意識して歌詞考えることが多いです。

 

▼恥ずかしながら自作曲です。良ければ聴いてください。実はこの歌の歌詞は今回のブログで言ってるようなことから考えていたりしてます。サビは分かりやすいかな?


www.youtube.com

なんで歌詞を聴かない人間になってしまったのか、完全に憶測なんですけど、最初に好きになった音楽がスピッツだったからじゃないかな~
他のバンドも聞くようになってスピッツがいかに抽象的で難しい歌詞だったかを実感しました。他のバンドの曲って深いのかもしれないけど、一応聞いててなんとなくストーリーとか情景とか浮かぶじゃん。スピッツそれがあんまないと思うんだよね。

 

と、言いたかったのはこんなところです。これからも多分、サウンドを聴いてます。

遊んでもらえるゲームが作れるようになりたい

去年、といっても2023の秋頃から一度忘れかけていた「ゲーム作ってみたい欲」が再燃し、ちょこちょことネット上のUnityチュートリアルをやってみてました。Unityというのは、ゲーム開発のエンジンのことです。

今週のお題「2024年にやりたいこと」

他人に遊んでもらえるゲームを作りたいです。これは、オリジナルのゲームを完成させられるようになって、それをアップして遊んでもらえるところまで含んでいますが今はまだまだそんな段階ではありません。今までの経緯についてお話します。

 

これまでも何度か「ゲーム作ってみたい欲」が大きくなるタイミングはありました。

まず4年前、中学3年生のとき、何も調べずに「ゲームを作りたいが開発エンジンなんて使うのはダサい!Javaで1からコーディングするんだ!」と意気込んだ少年はおみくじや数字当てゲームを作れるところまで1か月くらいJavaを勉強し、「なんかこのままやってても想像してるゲームを作れるビジョンが見えないんだけど…」と萎えて諦めてしまいました。

この数字当てゲームが作れた時の感動はそこそこあったんですけどね、イメージしているのが任天堂みたいな色のついた華やかなものだったので、この延長でどうやってグラフィックとかやるん?みたいな感想でした。なにせコマンドプロンプトで動かしてるだけでしたから。

いまだにあそこからグラフィックに繋がるルートが見えないんですけど、多分なにかあるんでしょうね。とにもかくにも1度目の挫折です。

 

ただ、このJavaをかじった経験は何かと役に立っています。高校1年の授業でGAS(GoogleAppScript)のプログラミングの授業があったんですが、大体Javaとやることは変わらないのでクラスの中でプログラミング得意な人になれました。それだけといえばそれだけなんですが、友達や女子から教えてほしいと頼まれてサラッと教えられるのは中々の快感でしたね。今思えば、こういうとこでプログラミングっていいなって思考になっているのかもしれません。

大学でも周りよりはできるので教えることもあります。東工大なのでもっとすごい人はたくさんいますが笑

 

さて、続いて高校2年生のとき、またゲームが作ってみたくなって今度は下調べをしました。どうやら開発エンジンなしでゲームを作ろうとしていた自分は無謀だったと、ここで気づくわけです。ここでUnityの存在を知り、少し手を出します。ひろはすさんという方のYouTubeを観ながら玉転がしなんかを作り、喜んでいた記憶があります。

話がそれますがこのひろはすさんという方の動画で「玉転がしを完成させただけでも、世の中に五万といる『ゲーム作ってみたい』と思っている人の上位1%くらいには入れている」という言葉をきいて興奮してました。今でもたまに思い出します。ゲーム作ってみたいなんて、特に男子だったら誰でも1度は思うはずだし。

今のXアカウントもそのとき作って、ただ受験で塾やら宿題やら忙しくてあまりゆっくりゲーム作れる時間がなくてやめちゃった気がします。

 

このときくらいからゲームの開発秘話とか、任天堂社長が訊くとか好きでよく読んでましたね。今でもたまに読みますがああいうの読むとゲームが作りたい気分になってきます。

 

続いて2023年春・大学1年生。受験期もずっと大学合格したらゲーム作るぞ~と意気込んでいたので、意気揚々とUnityを新しく買ってもらったノートパソコンにインストールしました。もう全然覚えていないので、再び玉転がしとか、ビリヤードとか簡単なチュートリアルを見様見真似で作りました。6月くらいでしょうか。C#の勉強も少しだけしました。

 

ただこのとき、趣味でUnityでゲーム作っているコミュニティの現状、というか完成したゲームのクオリティを見て、正直がっかりしてしまいました。決して馬鹿にしているわけではなく、ここまでゲームを作れるようになるのは大変だろうに頑張ってもこの程度のミニゲームしか作れないのかー…と失望してしまったんですね。

多分イメージしているゲームのクオリティが高すぎたんだと思います。それこそやったことあるのは大手ゲーム会社の有名タイトルばっかりですから。

誠に失礼ながらそこでモチベーションがなくなってしまって、また諦め。

でもこういう経験って多分誰しもありますよね?実は大学入ってから軽音にも入ったんですが、ライブハウスでやってる先輩のライブを観に行って同じようなことを思い、同じようにバンドのモチベーションがなくなってしまったこともあります。

全然見下してるのではなく。ただ未来をみて失望する、という。

 

そして去年の2023の秋頃。ここから今に続くゲーム作ってみたい欲が再燃します。

暇な時間が増えてきたと同時にまわりの友達が何かに打ち込んでいる様子を見て、「これだけは周りに負けてない!」といえるようなものが自分にはないことに落ち込みます。

そんなにチャラいタイプでもないので大学に入ったからといって遊びほうける訳でもなく、かといって真面目でもないので勉強を頑張るわけでもなく、このままでいいんだろうか…?と考えるようになりました。進路も決めなければいけないし。

色々やりたいことの見つけ方とか本を読んだりして、自己分析もしました。その結果、漠然と考えていたことがけっこうはっきりしてきて、自分は将来、人をワクワクさせるような仕事がしたい、かつ、何か創造性のあることがしたいというのが見えてきたんですね。で、ひとよりちょっとラクにできること、苦痛じゃないこと、プログラミングですね。まだまだ初心者なのは承知で。

…ゲームだな…

で、ゲーム作りたい欲は依然としてありますから、ゲーム制作が自分に合ってるかは分からないけど、とりあえずそれが判断できるところまではやってみようか!というマインドで再びUnityを触り始めています。

やらずに諦めているのはおろかな感じがしたので、目標としてまず他人に遊んでもらえること。そこまでできれば続けたいかどうか、自分に合っているかどうかがはっきりするのではないかと思っています。

向いていなければ、何か新しい別のことに挑むことができるし。時間がある大学生のうちにやっとかないとな、という気分です。

 

正直、もう3度もゲーム制作を挫折してますから、また途切れちゃうんじゃないかと不安ではあります。自信もそんなにありません。だからこそ今回はモチベーションを重視して、作ってみたいものを作ってみようかと思っています。

こうして心の内をあかすブログもそれで始めたわけだしね。

本当はもっと作ってる進捗とか載せたかったんだけど、思ったよりただ考えていることを明かすブログになってしまっています。進捗とか載せるとなると動画とったりスクショ撮ったりが大変そうだよね。

 

さあ、今思っていることを全て言語化してすっきりしました。

2024年の目標ではあるけど、本当は夏までくらいには何かしら完成させてアップしてみたいです。とりあえずモチベが切れないように、頑張りたいと思います。