BaliTodoのモラトリアム紀行

趣味の進捗から、思考の進捗まで、思ったことを日記感覚で残していきます

ひとりが好き、だけど寂しい

「ひとりが好き」だとは思うけど、これが本心なのか、人付き合いを回避するための言い訳なのか、というのは判断が難しいところです。

 

あけましておめでとうございます。

新年早々映画のような事件が次々と起こり、不安になる元旦でした。燃え盛る飛行機の映像を観ながら速報で全員避難済みと出た時は本当にほっとしました。

 

今回は大学に入り、自分ってひとりが好きなのかも、と思い始めた僕が考えていることを言語化してみます。お付き合いください

 

よく大勢とひとり、選ぶならどちらがいいかというのは話題にあがります。高校生までの僕はどっちもあるなぁなどと曖昧な答えだったんですが、大学に入ってからゆっくり思考をめぐらす機会が増えて、最近はひとり派に偏りつつあります。

 

もちろん友達といるときは楽しいし、このまま帰りたくないなーなんて思う時もあるんですが、やっぱり他人といるって疲れるんですよね。どんなに仲が良くても相手が何を考えているかは分からないことの方が多いし、愛想笑いだってするし、話においてかれないように無理して喋ったり。

4月には部活・サークル・バイトの多方面で新歓だの、親睦会だのありましたがどちらかというと僕は楽しさより疲れが勝ってしまうタイプ。深夜に帰ってきてはぐったりしてました。

一方ひとりであれば気を遣うこともなく自由に時間がすごせます。友達の中には「他人と会わないと寂しくてむり」とか「受験期孤独でおかしくなりそうだった」とか言う人もいましたが、僕は家族と過ごしてたからかそんなに寂しさは感じないですね。

インスタをみて他人と比べて寂しくなるときはありますが、ただ他人と会わないからといって孤独を感じるタイプではありません。

 

こういう自分の特性をふまえると、「ひとりが好き」なのかなぁ、とは思います。

 

で・も・ね?

そう結論が出ると一歩ひいたところから考えてしまう訳です。ひとりが好きって言ってるの、人間関係から逃げてるだけじゃないの??って。

結局のところ、他人といて疲れちゃうのって自分が他人に合わせてるからであって、素をさらけ出せない俺が悪いんじゃないの?ただ友達と話を続けるコミュ力がないだけなんじゃないの?友達づくり苦手なだけなんじゃないの?

と客観的に「ひとりが好き」を言い訳に人付き合いを回避しようとしている自分が透けてきてしまう訳ですね。

要は「俺はひとりが好きなんだ。別に友達がいないわけじゃねーし。」という合理化を、自分はしてしまっているのではないかという気がしてくるのです。

この考え方にも思い当たる節はあって。

例えば先ほども話したインスタ。友達が自分以外の数人で遊びに行ってた投稿をみるとすごく胸が痛みますし、寂しくはなります。

例えば陽キャの集団。いつも誰かと一緒にいて、正直に言うとうらやましいわけです。常に誰か友達と呼べる人といられることに多少の憧れがあることは否めません。

 

でも実際そういう状況になったとすると、多分俺は疲れちゃうし早く帰りてーなどと思ってしまう。ある種のジレンマかもしれないですね。

ひとりが好きだけど、寂しいという。

 

前に他にもこういう思いの人はいるのか気になって「寂しい ひとりがすき」ってググったことがあって、確かにいるんですよね。不思議ですけども。

要は今の自分が幸せでないと感じているから、他人をうらやんでしまうのかもしれないですね。多分趣味とかに没頭している人はこういう寂しさに悩まないような気がするから。

 

一応客観的に自分のことをみれているだけマシだとは思うんですけど、客観視できたところでどうしたらいいかは未だに分からないんですよね。

本心としては、そういう飲み会とか特段仲良くない人が多い集まりには参加したくないし、ひとりでテレビ観たりゲームしてたりしてたい。

でもこうやって人付き合いから逃げていることで将来大人になったときに困るような気もするし、経験をつめば慣れてくるものなんじゃないかという気持ちもある。

だから最近は結局行ったり行かなかったりです。大人の方、アドバイス求む。

 

以上、「ひとりが好き」は言い訳なのか、という話でした。

こういう話って友達にできなくないですか?友達といる時点で「ひとりが好き」とは言いづらいし、だいたい周りの友達は大勢が楽しいって答えるから。

 

なんか僕の悩み、こんなんばっかりですよ。こういう解決策って誰が教えてくれるんでしょうか。本は対して参考にならないし、検索してももっと参考にならないし。

自分で見つけていくものなのかな。同じこと思いながら大人になった人、絶対いると思うんだけどな。

僕が神様を信じてみる理由

少々日が空きました。名前が知られていないのに名乗ってもあれなので、毎回冒頭にあいさつする下りはやめようかと思いました。

(実ははてなブログのホームで、タイトルと同時に冒頭文が表示されるのを見て「貴重な見てもらえる部分を挨拶で埋めてるのアホかも…」と思った経緯があります)

 

さて、無宗教として知られる我が国日本ですが、あなたは神様、いると思いますか?

おそらく9割くらいの人は「特段何の宗教に入ってるわけでもないけど、ピンチのときとかは神頼みするなぁ」「神社はたまに行くけど別に普段は…」みたいな感じなのではないでしょうか。

僕もそうでした。神様いないとは言い切れないけどまぁいないでしょう!科学的に!と去年くらいまでは思ってたんですが、最近は結構神様の存在を信じるようになってきました。

系統で言えば神道ですかね。神社とか、八百万の神とか。逆にそれ以外の宗教に詳しくないだけなんですが。

 

でも、明確に信じるようになった根拠があるわけではないんです。ふと神様を信じる意味、というかメリットみたいなものって大きいな、と思うタイミングがちょくちょくあったんです。

 

信じる意味、それは心のよりどころとしての神様です。

いるかいないかは知りません。ただ、信じることで人生が少し楽になるんじゃないかと、今の僕は思ってます。

どういうことか、宗教チックにではなく、精神的なメタ思考で説明していきます。

 

1.安心感

まず、不安なとき。受験とか面接とか、命の危機とか、ギャンブルとか。

「神様お願い…!」ってやりますよね?この瞬間だけでも、自分の頭に都合よく表れた神様が、うまいこと運命をいい方向に導いてくれる感覚、ありますね。この安心感こそが、一つ目のよりどころ。

 

2.ポジティブ思考

次にダメだったとき。受験に落ちたり、嫌なことがあったり、とことん運が悪かったり。

これはそう考えるかは人それぞれだと思うんですけど、僕の場合「これは神様が自分に与えた試練なんだ」という風に捉えて楽になります。神様をある程度信じていれば、何か悪いことがあっても、これは神様が決めた運命で何か将来にこの経験が活きてくるんだろう、ってポジティブに考えることができます。このポジティブ思考が、二つ目のよりどころ。言ってしまえば、運の悪さ、自分の悪さを神様になすりつける感じ。

 

3.日々の正当化と希望

最後に良かったとき。受験に受かったり、めっちゃいいことがあったり、運がよかったり。

ポジティブ思考の逆シチュエーションですね。「ありがとう神様…!」とこうやって感謝をすることで、普段自分が頑張ってたからこそいいことが起きたんだ、という日常の生活の正当化にもなりますし、感謝をしているえらい自分をメタ認知することで次も神様が助けてくれる気がしてきます。この日々の正当化と希望が、三つ目のよりどころ。

 

この3つのよりどころとしての神様、どうですか?

僕なりになかなか筋が通っていると思っていて、こうやって考えれば神様を信じる気になりますし、多分こういう理由があるから人類は宗教という概念を生んだんじゃないかなぁ、なんて思ってます。

 

少し話がそれますがもし神様がいなかった場合、何千年も変な人形や像を作り、立派な建築をし、へこへこ頭を下げて戦争までしてきた人類って、すごく滑稽ですね笑

たまに想像して可笑しくなります。

 

話を戻します。

このよりどころとしての神様、すごく都合のいい考え方であることは分かっています。嫌なときは神様のせいにして、良いときは自分のおかげ。ちゃんと宗教をしたら、こんな考え方で神様を信じるのって無礼で怒られるかもしれない。

でも、普段何も考えていないような我々なら、「神様なんだから何でも許してくれるっしょー!」の精神で神様を信じていいと思うんですよね。というか本来宗教ってそれくらい緩いものであってよかったんじゃないかと思います。

 

いかがでしたでしょうか。説得力、ありましたかね。

上のシチュエーションみたいなときに神様を信じ始めてみると、意外と信じる気持ちが強くなっていって本当にいるような気がしてきます笑

会話で失われていく自己肯定感

こんばんは。BaliTodoです。

 

今までのブログを読んでいただければなんとなくわかると思うんですが僕はどちらかというとコミュ力に自信がなくて、友好的な態度を示してくれる人以外だと会話が続けられる自信がないです(誰でもそうかも)。

正確に言えば続けられないというより、つまらない会話しかできないという感じ。

 

一方そんな僕が普段仲良くしている人、これは中高の友達や大学の友達もそうなんだけど、ほとんど友達が多いんですよね。

みんな仲いい人が多くて、誰とでもすぐ打ち解けるような人。フレンドリーだし、明るいから楽しい人。

 

だからこそ、そういう人に憧れる僕は彼らに人間関係の面での劣等感を感じちゃうし、友達が他の人とも仲良くしてると自分は友達を親友くらいに思ってても、相手からしたら自分は仲いい友達のうちの一人なんだろうなー、などとネガティブな思考をしがちなわけです。

 

高3くらいの僕は何で俺の周りにはこんなコミュ力高い人ばっかり。。。などと劣等感の原因を悩んでいたんですが、今年になってふと気づきました。

 

コミュ力高い人ばかりが友達、これって必然なんじゃない?

 

と。今までは偶然自分の友達は交友広い人が多くて不幸だな程度にしか思っていなかったのですが、ある意味それはなるべくしてなった状態なのではないかと気づいたわけです。

というのも、僕自身あまり話題を自分から振ったり盛り上げたりするのは得意なタイプじゃないですから、他人と仲良くなるのもそこそこ時間がかかるわけです。

 

そういうタイプの人間である僕が友達になれたということが、既に友達の人間性の幅を狭めているのではないか!と。

どう?なかなか鋭い考察じゃないですか?笑

 

タイトルにもそう書いたから読んでる側は何を普通のことを、と思うかもしれませんがこれに気づいたときはなかなかに衝撃でしたね。今までもやもやしてたことに筋が通ったわけですから。

 

正直な話、自分よりコミュ力がないやつと仲良くする能力、僕にはないです。これは見下してるんじゃなくて、相手の心を開かせるほどの力が自分にはないってこと。

 

そういう人と二人きりになったとき、さすがに自分が盛り上げ役というか話題を出す側にまわるわけですが、なんせ当たり障りのない会話ばっかりでつまらない

会話を盛り上げることになれてないから、静かに気まずくなっちゃうんですね。

 

でもこういうのを考えてる性格だから、自分が自分よりコミュ力高いやつと話すとき僕は人一倍びくびくしているんだと思います。

なんとなく数分話せばわかるじゃないですか。相手のタイプというか友達の多さみたいなところが。

 

僕は友達多い人が苦手です。嫌いなんじゃなくて、むしろ尊敬するんだけどそういう人と話すとどんどん自信がなくなってきて、ストレスがたまるから。

 

相手は自分がおとなしい人に話題振るときみたいに笑顔で盛り上げようとしてくれてるのに、自分がそのペースに飲まれちゃうというか、つまらないことしか言えないなーって会話中に感じちゃうんですよね。

「あー、今相手は自分のこと陰キャだとおもってるんだろうな」って。多分考えすぎでそんなことないのは分かってるんだけど、多分逆だったら俺は相手をつまらないやつだと思ってるから相手もきっとそうなんだろう、って考えちゃいます。

 

なんか今ブログとして言語化してすごいしっくりきました。これですね、僕がワイワイしてるところで疲れちゃう理由。共感してもらえるかな

 

なんでなんだろう?陰キャと思われたくないのかな。プライドなのかな。

率直に書けば、本当は、仲良くなればもっと面白いやつなのにまだそんな仲良くないがゆえに過小評価されてつまらないと思われてそうなことに、僕はストレスを感じてるんだと思います。

(痛い文章かも。でも本音書けば誰しもこんなもんだよね)

 

つまり、他人と二人話してると話題がつきてきてくるじゃないですか。

相手が自分と同じかそれ以下の友達少なそうなおとなしい人だったら、僕はあまりストレス感じないんですよ。自分は話題出してるし、盛り上がらないのは相手にも非があると思えるから(※普段はこんな理屈っぽく考えてません。言語化してるからキモイだけです)。

そんで、相手が陽キャ(と僕が思ってる人)だとたちまちストレスがたまりやすくなるんですね。相手は何も悪くない、むしろ仲良くしようとしてくれてるのに、その期待に応えられていない自分が嫌になるから。

話しながら「話つまんないと思われてるんだろうな」「相手は他の友達とだったらもっと楽しく会話できるんだろうな」なんて考えちゃって、でも会話の主導権は相手にあるから受け身の会話になっちゃって。そうなると返答までが短いうえに二人きりだとすぐ返さなきゃいけないから面白いことも浮かびにくいし。

 

ん-。これだね。

 

ブログ書いててよかった。今解明しました。長年の陽キャ苦手な理由。

 

要は自分に自信がないのかもしれない。

もし同じようなこと思っている人がいたら教えてください。一定数はいるとは思うな。

 

じゃ、さようなら。

ブログで見えてくる国語力のなさ

こんにちは。BaliTodoです。

珍しくこんにちはの挨拶でお送りします。

 

共通テスト以外受験で国語を使わなかったことが関係しているかは分かりませんが、最近ブログを書くようになって作文力のなさを実感します。

 

書いてるうちに「あ、このことも書こう」「そういえばこれは補足説明したいな」とかどんどん思いついてきて自分でも何を書いてるのか分からなくなってきちゃうんですよね。

書いてる本人がよく分からねぇなと思いながら書いてるんですから、多分読んでる方はだいぶストレスなんじゃないかと思ってます。ごめんなさい。

自分の文章を客観的にみるって難しいなー、と実感してます。

 

書く前にある程度構成を考えた方がいいんだろうけど、こういう風に口語で書いてるからある程度習慣として続くっていうのもあって多分今後もやらない気がします。

 

いちおう構成を考えた記事もあって、初期の方に書いた共通テスト倫理政経の記事です▼

 

idoling.hatenablog.jp

これはちゃんと書く前に章立てをして、ある程度内容をまとめてから書き始めました。時期別にやることがまとまってて読みやすいと思います。

 

この記事、かなり自信あったので書いた3月はまだしも秋くらいになったら伸びると思ったんですけどねー。。

共通テスト本番までのこり1か月を切っているのに全然読んでもらえません。来年に期待ですね。

たまたま読んでくれているのが倫理政経選択の受験生だったらぜひ参考にしてください。誰でも9割はかたいと思います。

 

では、さようなら。

自分の話がしたい。聞き上手にはなりたくない

こんばんは。BaliTodoです。

 

よく考えたら毎日くだらなくない内容でブログを更新するというのはけっこう無謀な計画だった気がしてきました。

はっきり言うと、ネタ切れです。

 

一応ストックがないわけではないんだけれども、あまり書く気にならないというか、そんなに書いても楽しくなさそうな内容なのでなら今日はいっか、というこの頃です。

 

さて、今回は会話の話。

 

今大学1年なんですが、高校のときくらいから雑談に苦手意識持っててよく「こういう話し方で世界が変わる」的な、いわゆる会話本を好きでよく読みます。

 

全然喋れないわけじゃないんですけど(仲いいグループだったらなんも苦手意識とか持たずに話せるし)、微妙な友達・知り合いだとよく会話のネタがなくなって気まずい思いをします。

 

でも友達はいつも誰かと何かしら楽しそうに会話してて、うらやましくなるわけです。そういう人ってグループで歩いてても一人になってることが少ないイメージですね。

 

会話本にはよく「会話の基本は質問である」という旨のアドバイスがあります。ほぼどの本にもこんなことが書いてあります。

・人間は自分の話をしたがってるから、質問をすれば相手は気持ちよく話してくれる

・話し上手は聞き上手。相手の話を聞きましょう

・相手の話に興味をもってみると会話がはずむ

 

何冊も会話本をよんできましたが、本当にこればっかり。

当時このことも知らなかった高1くらいの僕はなるほど!と納得し少しだけ会話上手になりました。

たしかに人に質問するとある程度は話してくれるし、うまく質問をつなげば会話が長持ちします。

特に初対面の相手は知らないことが多いので有効で、このテクニックでその場はなんとかなります。

 

でもね?高3くらいの僕は思ってきちゃいました。

「聞いてるばっかりでつまらなくない?」と。

 

僕のブログでは何度も書いてるんですけど、しょせん我々は一般人で芸人ではないのでたいして話は面白くないわけです。

会話は確かに質問でつなげるけど、相手の話聞いてるばっかりで楽しくないんですよね。

さらにそのうち「こっちは質問して相手に自分の話をさせてるのに、向こう側は全然こっちに話を振らない」という感情が生まれてきて、モヤモヤしてしまいます。

 

僕がうらやましく感じる雑談の上手い人は、どちらかの人の情報じゃなくて何か別のモノについて語ったり、冗談を言っているイメージです。

どうやったらこういう話がうまくなるんでしょうか?こういう系のアドバイスがある会話本はあまり見ないんですよね。

 

また、欲を言えば相手に自分のことを聞いてほしいですね。自分が普段相手に自分語りさせてるように、誰かに僕も自分語りしたい。

でも他人に興味を持つのって、こういう会話本でも読んでないとなかなかない気がしますよねー。

だから僕の生活では「聞いてばっかでつまらんなぁ」という感想になるわけです。

 

むー。この原因、もしかしたら「他人に興味がない」ことにあるのかもしれないですね。

たまーに自分で他人に興味ないかもって思うことがちょくちょくあって、そういう性格が雑談が苦手というか雑談を楽しめない人間に僕をしているのかもしれないです。

小中の頃(今でも少しその傾向はありますが)学校の話を親に聞かれるのが嫌いで、いつも「それ聞いてどうすんの」みたいなことを言っていたなぁ、と今思い出しました。

今日何があったかきいたところで何も変わらないし、みたいな、冷めた感情があるせいでこの雑談を嫌う癖がでているのかもしれない。

 

でもねー。解決策が分からないし相手に好奇心をもとう、と言われてもなんだよね。

こういうのって誰に相談したらいいんだろうね。会話本を見かけると読んじゃうのってこの答えを探してるからかもしれないですね。

 

同じような性格の方、どう大人になったか教えてほしいです。

では、さようなら。

 

 

 

 

 

自分で笑っちゃう盛り上げ上手たち

こんばんは。BaliTodoです。昨日はナチュラルにめんどくさくなって書きませんでした。

チョコレート工場の映画のレビュー、ホットな話題だしもう少し見てもらえるものと思ってたけど甘かったですね。検索にもひっかからないんでしょうね。悲しいです。

 

idoling.hatenablog.jp

 

さて、高校時代から始まる自己分析で分かってきたことなのですが僕はすごく仲良い人と以外、盛り上げるのが苦手です。

前までは普通だろ、くらいに思っていたのですが大学に入ってまわりの人たちが盛り上げうますぎて、自分が苦手な部類にいることを自覚してきました。

大人数のパーティーとか打ち上げとか行っても、どうも盛り上げられず一歩引いたところでたたずんでる。楽しめない。

なんでだろう、と観察してました。

 

そして、この盛り上げられる能力、最近分かってきました。もちろん全員とは言わないですが、盛り上げられる人ってだいたい「言ったことに自分で笑う」んですよね。

我々って芸人ではないですから、話す内容自体はだいたいそんな面白いものじゃないわけです。多分たまに、(ずっと話してたら5分に1回くらい?)心から笑える面白い発言が多くの人ができると思うんですが、それじゃあ多分場はしらけたままなんですよね。

5分も真顔で話はもたない。

 

で、この盛り上げ上手な人たちはコンスタントに笑顔のタイミングを作り出して場を明るい雰囲気にしてるんですよね。この秘訣こそが、「話自体は面白くなくても自分が笑っちゃう」ことなんだと思います。どういうことか?詳しく書きます。

 

僕のような盛り上げ下手タイプの人は会話に参加してて何かしらの感想、ジョークが浮かんでもいったん自分の中で吟味して、「いうほど面白くないな」ってストッパーをかけちゃうんじゃないかと思います。言ってもしらけそうだし、って。

だから口数は減るし、盛り上がる場を作ることができない。(全くつまらない人かといえばそうではなく、たまに発言するときは笑いはとれてると思います。)

 

でも盛り上げ上手は、僕がストッパーをかけるようなことも口に出して、言った後にすぐ自分で笑っているような気がします。

こうすることで周りの人は「今笑うタイミングなんだ」って(多少愛想でも)笑えますし、もし笑えないほどつまらない話だったとしても言った本人が笑ってて楽しそうだからいうほどすべった感じに、しらけた雰囲気にならない。冗談の後のシーン…みたいなね。

 

盛り上げ上手が意図してこのテクニックを使っているのかは分かりませんが(多分なんも意識してないと思います)この「自分で笑う」共通点に気づいたときは腑に落ちた感じがしました。どうでしょう?この仮説。

 

決して盛り上げ上手は話がつまらんとか言うことではなく、打率の問題。思いつく面白いことの割合はそんな変わらないはずだけど、言うかどうか、そしてそれを楽しくできるかどうか。ここだと思います。

 

 

「じゃあお前も使えばいいじゃん。そのテクニック。盛り上げてみなよ」

うん、僕も一度考えたんですけどね。無理そうでした。

僕の場合これにプラスして、「心が冷めてる」っていう欠点があって、さっき言ったように自分だったら言わずにおいてるような冗談に笑うのがけっこうストレスです。

 

自分で笑うテクニックの存在にきづいてからいかに自分が「雰囲気に合わせて、愛想笑いしているか」に気づきまして、今まで人との会話で疲れていたのはずばりこの愛想笑いにあるとわかりました。面白いと思わないのに、相手が笑ってるから笑うパターンが異様に多いことに気づいたわけです。

だから自分で言った面白くないことに笑うのも自分にはきつい。この作戦は向いてないみたいです。

 

でもみんなみたいに誰とでもうちとけて楽しくできてるのは凄くうらやましいわけで、僕以外の人たちが「ストレスを感じつつも愛想笑いしているのか」、はたまた「笑いの沸点が低いから笑いやすいのか」はまだ未解明です。(笑いの沸点が低い、なんて書くと上から目線っぽいですがそんなことはなく、楽しむ感性が豊かってことです。)

 

でも前者とは考えづらくて、そしたらみんな会話をよけて打ち上げとかには消極的になりそうな気がするんですよね。だから多分後者。そしてその感性はうまれつき。

 

この沸点を変える方法ってあるんでしょうか?今回の話のテーマに関連してゲラってすごく人生得してるな、と僕は思っているんですが意図してなれるものではないですよね、多分。

 

19歳の自分はここが最近の悩みです。会話を純粋に楽しめる人になりたい。

同じような経験をした人生の先輩にアドバイスが貰いたいなぁと、最近つくづく思います。

まー、可能性としては?自分に自信があるかという部分の可能性があります。自信がないから発言できないのかも?自分磨き、します。

 

思ったより長い文章になってしまいました。割と本当に、最近こういうことばっか考えてます。だれか、アドバイスないですか。

「したいことリスト」はしたくないことの裏返し

こんばんは、BaliTodoです。バリトドと読んでほしいところです。

 

なんか、昨日のブログがないですね。そうですね、完全に忘れていました。「ブログめんどいかもー?!」の矢先休んでしまって悔しいです。

いちおうね、原則は毎日1ブログの精神で、やっていきます。

 

ここのところ少しブログの閲覧数が増えてきて(といっても1日10件とかなんですが)うれしいです。Twitterの方は特にいいねがついてる様子はないけどどこから読まれてるんでしょうか。どのブログの閲覧なのかもよくわからずモヤモヤしてます。

 

さて、今回は受験終わってゲームしなくなってきたね、という話です。

 

僕はゲームをするのがガチゲーマーではないにせよそこそこ好きで、高校までは常にゲームしたくてウズウズしている感じだったんですね

でもそれが、大学受験を機にゲームを封印してから変わってしまったような、そんな気がしています。

 

受験期まで(高校2年の冬くらいまで)はSwitchの任天堂のゲームとか、スマホのゲーム(マイクラ・第五人格)とか結構やっていました。

受験生のときも「絶対に現役で受験を終わらせて、大学入ったら我慢してたゲームをしまくるぞ〜」って思いながら勉強してたわけです。

 

で、頑張った末大学受かって、蓋開けたらあれ?

なんかゲームモチベがなくね??

 

不思議なもんです。あんなにしたかったはずなのに、そんなにやる気にならない。

結局去年の、受験生の僕は「勉強じゃないこと」がしたかったんでしょうね。
これはゲーム以外にも意外と当てはまります。
受験勉強の息抜きにしてた作曲とかお絵描きとか、めっちゃ楽しくて受験終わったらもっと本格的にやるぞー!って思ってたのに、受験終わったら意外としない。
勉強中あんなに聴いてた音楽も、前に比べたらそんなに聴かなくなりました。

 

「したいことリスト」を作っている世の受験生は多いと思います。僕も作ってました。50項目くらありました。

僕の場合は40個くらいは達成して満足なんですが、他の友達とかは全然受験終わったのにやってない、みたいな話を聞きます。

 

なんの話をしているんでしょうか。考えるのも嫌なのでここで文章を切ります。

ちょっと今回は、自分語りすぎて書いてる側も気持ち悪かったですね。

もっといい感じのブログになるように、テーマ考えます。

 

じゃ、さようなら。何かあればコメントくれたらうれしいです。